Kyanbridge Englishの喜屋武奈央子です。
Kyanbridge Englishhは、私が大学院留学や海外勤務時代に「こんなサービスがあったらいいなぁ。」と思っていたことを、ぎゅっと凝縮したサービスを提供しています。
そして、私が提供する全てのサービスには、これまでたくさんの先輩たちから受けた恩を返す"pay it foward"の気持ちがこめられています。
このブログでは、私が留学時代に困った事例を紹介しながら、Kyanbridge Englishを立ち上げようと思った背景をお伝えします。
心が折れかけた留学体験談
Yahoo!がデビューした翌年の1995年、私はアメリカのアイオワ州にあるアイオワ大学へ編入学しました。
当時はインターネットが今のように一般的ではなかったので、わからないことや困ったことがあった時は、図書館で調べるか、人に聞くかしか方法がなかった時代。(あ、何かすごい年齢を感じる・・・笑)
留学前は、主に語学面や衣食住、勉強の方法についてできる限り調べました。
しかし、安全に関することや、メンタル面を含む健康管理については、おろそかになっていました。留学当時の私は人生経験が少なかったので、そんなことが大事になるとは思ってもみなかったのです。
行ってみてから気が付いたのですが、自分が興味があることばかり調べていて、圧倒的に情報量が足りていなかった・・・。
そのため、想定外の出来事に直面するたびに、どう対処していいのかわからず、メンタル面でも体力面でもぎりぎりまで追いこまれました。
「もう、無理かも・・・」
そう思ったことは何度もあります。
それでも私が留学を続けられた理由は、同じような経験をしたたくさんの女性たちに出会えたから。
ここでは、私が留学先で体験した苦労話をいくつか紹介します。
【語学面】大学1日目から英語がわからない
「今日から私はユニバーシティ・ステューデントよぉ!」とウキウキしながら教室に入った私。
新学期が始まる前の3ヶ月間、大学附属の英語学校で一番レベルの高いレッスンを受講して大学での授業に備えていたし、先生からの評価も良かったので、英語力には自信がありました。
アメリカ人の学生とも肩を並べて授業に参加できる。
「え、あの人留学生なの!?すごい英語上手!」とびっくりされること間違いなし!
それくらいの自信がありました。
しかしその自信はものの数分で崩れ落ちました。笑
忘れもしない、Introduction to International Relationsという授業。
始まって5分とたたないうちに、自分の浅はかさを悟りました。
教授が何言ってるのか、ぜんぜんわかんねー(涙)
私、詰んだ。
授業内容はおろか、宿題の指示や予習範囲も理解できない。
英語学校で学んだ英語とは、まるで違う。
後々わかるのですが、英語学校の先生は、生徒のレベルに合わせて文法や語彙を変えて、わかりやすく話してくれていたのです。
これが、語学面で最初にぶつかった壁です。
【食事面】寮の食事が合わなすぎる
学業以外で衝撃だったのは、寮の食事が合わなすぎたこと。
寮やカフェテリアの食事については、ある程度「留学体験記」のような本で調べてわかっていましたが、私は食べ物には関心が薄い方なので、どんな食事でも食べられればOK!と問題視していませんでした。
し・か・し!ここでまた、自分の浅はかさを悟ります。
全部味が濃すぎるか、味がないかの両極端。
肉以外、ふにゃふにゃか、パサパサ。
例えば、寮で週3ペースで出されていたマカロニ&チーズ。マカロニはゆですぎてベチャベチャ。チェダーチーズだと思われるものは、絵具のようなオレンジ色で油っぽく、塩味しかしない。
付け合わせのブロッコリーは、ゆですぎでフォークで刺すと崩れる。色も抜け落ちてるし、味もなし。
これを週3出されるのはきつすぎる。かといって、外食する余裕なんてない。
日本食が恋しい・・・
毎日毎日、お味噌汁と白いご飯が食べたいとばかり思っていました。
【メンタル面】極めつけのメンタル崩壊
留学が長期にわたるにつれて、メンタル面もやられていきました。
英語だけの生活をしていくなかで、自分の英語が確実に上達している手応えはありました。
しかし、授業でのグループ発表が鬼門でした。グループメンバーからはほぼ毎回、「Naokoは無理して発表しなくていいよ。(英語あんま上手くないし。)」「と言われ、冒頭のあいさつなどの、めちゃくちゃ短い部分を担当させられていました。
ディスカッションの時には、マシンガントークで畳みかけるように議論するクラスメートの中に入って行けず、評価はダダ下がり。
理想と現実のギャップに悩み、「自分なんか、どうやったって無理なんだ。」と自信を喪失しました。
夢に向かって努力し続けてはいたものの、「アメリカに来た自分は間違っていたんじゃないか。」と疑問を感じ始め、何をしても空回りするような感覚に陥りました。
もがけばもがくほど落ちていくアリ地獄にハマったような、そんな感覚でした。
わたしを救ってくれた女性たち
語学面、食事面、メンタル面での困難を紹介しましたが、それでもわたしが留学を続けられたのは、生涯の友となったアメリカ人女性のキンバリー (キム)とセルビア人女性のスニェジャナに出会えたからです。
もちろん、他にも助けてくれた人たちはたくさんいますが、この2人に出会えなかったら、今の私はなかったと断言できます。
語学面で一番助けてくれたのは、大学1日目に受けたIntroduction to International Relationsという授業で、ノートをコピーさせてくれたキム。
私のつたない英語を理解して、「この時はこう言ったらいいよ。」と教えてくれたり、英語特有の微妙な言い回しや学生スラングを教えてくれたりしました。
キムはまた、アカデミック・ライティングを教えてくれたり、試験対策の勉強会を開いてくれたりしました。それだけではなく、私の苦手なグループ発表の練習にも付き合ってくれました。
食事面では、スニェジャナに助けられました。スニェジャナはアパートで一人暮らしをしていて、病院で夜勤のアルバイトをしていました。そのため、私がハウスシッターとして留守番を任され、キッチンを使わせてもらうことがよくありました。
スニェジャナからは、お母さんお手製のプラム酒を飲みながら、おいしいセルビア料理を教えてもらいました。(いまだにあの濃厚なプラム酒の味が忘れられない。)おかげで日本食が恋しくなることもなくなっていきました。
メンタル面では、キムとスニェジャナの二人に助けられました。その当時30歳だったキムには、私がいたいけなローティーンに見えたらしく(笑)、アメリカ社会で生きていくための常識や、自立した女性として生きていくための心構えを教えてもらいました。
3歳年上のスニェジャナは姉のように接してくれました。ハウスシッターで留守を預かっていた時、夜勤で疲れているにも関わらずいつも私の話を聞いてくれました。私たちはお互いの困りごとについて一緒に悩み、泣き、解決策を探しました。
アメリカ人と結婚してアイオワ州に住んでいた私の叔母は、常に私のことを気にかけてくれました。どうしようもなくなった時に帰れる場所があるというのは、とても心強かった。
アイオワ大学では日本人にほとんど出会わなかったのですが、MBAスクールに通っていた日本人女性と知り合う機会がありました。彼女からは、日本人女性としての殻を破り、自分らしく生きる勇気をもらいました。
ネパールでのフィールドワークに参加した時に、同じグループだったプエルトリコ人とアメリカ人の女性。テキサス出身のボーイフレンドのお母さん。寮でルームメイトだった女性。
たくさんの人たちが色々な形で、何の見返りもなく助けてくれたおかげで、私は無理だと思っていた大学と大学院を卒業し、海外就職の夢を叶えることができました。
Kyanbridge Englishを立ち上げた理由
英語には、”pay it forward”という表現があります。
2000年に大ヒットしたハリウッド映画のタイトルにもなったこの言葉には、「受けた恩をただ相手に返すのではなく、その恩を違う形で誰かに渡していく」という意味があります。
私自身、留学や海外勤務を通して、本当にたくさんの人たちに助けられました。
その経験から、私は、Kyanbridge Englishを通じて、”pay it forward”の精神を体現していくことが使命だと感じています。
あなたが一人で悩む必要はありません。
私を頼ってください。
これが、Kyanbridge Englishを立ち上げたきっかけです。